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人生朝露

人生朝露

正岡子規と荘子。

ほいきた、
悪かったわね!
荘子です。

あんまり権威主義に陥ると荘子ってのは面白くないんですが、
坂本竜馬。
坂本竜馬が『荘子』好きで、100年前まで荘子読みは多かったって話をしました。

参照:荘子、古今東西。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5038

『その間、竜馬は、自分の亀山社中の下関支店にしている阿弥陀寺の大町人伊藤助大夫方を旅宿としていた。
 竜馬はこの支店の名を、
 「自然堂」
とつけた。この男は、釈迦も孔子も尊敬しなかったが、ただふたり、ふるい哲学者のなかでは老子と荘子を尊敬していた。なにごとも自然なるがよし、という老荘の思想にあやかって自然堂とつけた。
(中略)岡三橋は、感心したような解せぬような顔をして、何度も首を振っていた。いわゆる勤王奔走の志士が、老荘思想という虚無思想をもっているということが、ふしぎでならなかったのだろう。』(司馬遼太郎『竜馬がゆく』巻6 秘密同盟より)

芭蕉。
芭蕉も竜馬も漱石も出したので、この人は推測できるでしょう。

次なる荘子読みは、

『俳句、 短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖となった・・』(渡辺謙風に二割方鼻に抜いて読むべし。)

正岡子規。
正岡子規(1867~1902)であります。

参照:Wikipedia 正岡子規
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F

今回は『坂の上の雲』より引用いたします。

------(以下引用)-------------------------
 子規は、どんどん成長している。まだ共立学校で英語と数学をまなんでいたころ、この学校には漢文の授業もあり、『荘子』を教えていた。
 これが子規の哲学への開眼になった。
 「あしは、あの荘子の講義にはびっくりしたぞな」
 と、子規は、予備門に入ってからも、真之に何度も言った。漢文といえば孔子孟子といった儒学の世界のもので、老子荘子というような異端の学問は田舎の漢学者はめったにやらない。
 「さすが花の都じゃとおもうた。予備門の予備学校で荘子をおしえられるとは、きもをつぶした。荘子は、人間とはなにか、世の中とはなにか、生命とはなにか、を考えさせる」
 このため、大学では法律をやらずに哲学をやろうと思った。大政治家の夢は、かんたんにやぶれた。
 「ところが、秋山よ」
 と、猿楽町の下宿で子規は言うのである。子規は大ためいきをつきながら、
 「哲学も、あしにはややこしいなあ」 
 といった。理由は、語学であった。予備門の講義にも哲学概論があったが、この教科書が英語であるうえに、なんとも砂を噛むようにおもしろくない。
 「あしには、物事をつきつめてゆくあたまがあるようにおもわれるが、、ただしそれは多分に直感的で、その直感を道理として組織化してゆくことにはどうやら欠けているらしい。将来の大哲学者になるのは、むりじゃな」
 「べつに、そう、せっかちに自分をきめつけィでもよかろうがな」
 「少年老イヤスク学成リガタシ、せっかちにゆかねば男子はどうなるものぞ」
------------------------(引用終わり)-----
(文芸春秋刊 司馬遼太郎著 『坂の上の雲(1)』「七変人」より)

子規の相手している、
秋山真之。
秋山真之さん(1868~1918)も、『老子』『荘子』を読んでおいでです。ま、あの家は特にお父さんが(笑)。

長岡半太郎。
長岡半太郎さん(1865~1950)とも年代が近いし、もちろん、夏目漱石(1867~1916)もそうですけど、あの年代って、荘子をはずせないんですよ。100年前までは当然のごとく読まれているんですよ。荘子は。

参照:長岡半太郎と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5007

≪只々前言を縮めて荘子書中の見る所の哲理を挙ぐれば、
第一 道なる者ありて無始無終に存在すること
第二 萬物は変遷消長しも止まらざること
第三 萬物の大原因は終に知るべからざること
第四 是非善悪美醜は終に知るべからざること
等なるべし。≫(正岡子規『莊子ヲ讀ム』(明治24年)より 一部旧字体を修正。またカタカナ表記をひらがなにしています。 )

そのものズバリ『荘子を読む』というエッセイが正岡子規にはありまして、荘子について熱く語っています。

≪支那の哲学は欧州哲学の如く論理に因り秩序を整へて以て其哲理を説きし者なし。故に今日より之を憶測するもの多くは一語一句を帰納して一法則一原則を作る弊あり。日本支那の学者又然り。西洋の学者老荘を論ずる者往々誤謬ありと聞く、さもあるべし。然れども荘子の如き猶其哲理を模索し得べき所少なからず、請ふ少し之を論ぜん。(中略)荘子の宇宙の原理を説く、人或は佛家の眞如と同じと称す。其眞如と似たるや疑なけれども其眞如と同じとするは之を大早計といはざるべからず。荘子は未だ嘗て「非有非空。非非有空。眞如即萬法。萬法即眞如。」と云ふが如き判断を下せしことあらず。其大宗師に於て道を論ずる句の如き「夫道、有情有信、無為無形。可傳而不可受、可得而不可見。自本自根、未有天地、自古以固存。神鬼神帝、生天生地。在太極之先而不為高、在六極之下而不為深。先天地生而不為久、長於上古而不為老。」云々とあれども此道と云ふ者は如何なる者なるか、其道と萬物との関係は如何なるか、之を明らかにする由なし。然るにここに憶断を下して「眞如即萬法。萬法即眞如」と云ふは則ち非なり。≫(同『莊子ヲ讀ム』より )

正岡子規が言っているのは、大乗仏教と荘子との関係です。大乗仏教の「真如」ってのは、荘子の「無為自然」「道」と同じじゃないか、という昔から日本人を悩ませている事柄についてです。子規の場合は、荘子の言っていることが坊さんと同じだと証明する手段がない以上、決め付けられん。と、言っているんです。

参照:Wikipedia 真如
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%A6%82

しかし、ですよ。

>唯識(ゆいしき)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感に対する識別作用(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。
>あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。

荘子の「胡蝶の夢」と「渾沌の死」の寓話は、大乗仏教における唯識ではないですかね?

参照:Wikipedia 唯識
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

当ブログ 荘子と進化論 その70。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201101020000/

Spoonboy。
スプーンなんてないんじゃないんですかね?

参照:08 There is no spoon !
http://www.youtube.com/watch?v=PyyhWF-bbQU&feature=related

荘子と進化論 その52。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201005230000/

水槽の脳。
水槽の脳の仮説を通せば、荘子の言っていることと坊さんが言っていることは同じだと言えると思いますよ。

Are you a brain in a vat?
http://www.youtube.com/watch?v=ursdoT66JlU

Zhuangzi
「古之人、其知有所至矣。惡乎至?有以為未始有物者、至矣盡矣、不可以加矣。其次以為有物矣、而未始有封也。其次以為有封焉、而未始有是非也。是非之彰也、道之所以虧也。道之所以虧、愛之所以成。果且有成與虧乎哉?果且無成與虧乎哉?」(『荘子』斉物論 第二)
→昔の人の知恵は行き着くところまで行ったものがある。どこにまで至ったのか?最初から存在などない「無」であり、至れり尽くせり、なにものを加えることもできない境地に達していた。それに次ぐ知恵は、物が存在するとしながらも、それを人間の知のはたらきの枠にはめることはできないとした。さらに、それに次ぐ知恵は、物は人間の知のはたらきの枠にはめることができるとしながらも、そこに是非の判断を加えない境地にあった。是非の判断が入ると、道(tao)は破壊されていき、道が破壊されていくところから愛憎の情念が湧き上がる。果たして、道に完成や破壊というのがあるのか?完成も破壊もないのか?

今日はこの辺で。


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